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東京家庭裁判所 昭和41年(少ハ)20号 決定

少年 N・D(昭二三・一二・二四生)

主文

少年を医療少年院に戻して収容しない。

理由

一  本件申請の要旨

(一)  本人は、関東地方更生保護委員会第三部の決定により、昭和四〇年一一月一八日関東医療少年院から仮退院し、沼田市○○町(祖母)N・N子方に帰住して以来、昭和四三年一二月二三日を保護観察の終了日として、前橋保護観察所の保護観察下にあるものである。

(二)  ところが本人は、

(イ)  昭和四〇年一二月上旬頃までは祖母N子、姉S子とも大体折合つて生活していたが、その後は持前の我儘な性格が出て、同年一二月一〇日ささいなことから祖母と争つて家出し、姉K子(沼田市○○○町)に引取られた。そこでしばらく内職(トランヂスタラジオ部品組立)を手伝つていたが、昭和四一年一月二六日頃てんかんの大発作を起し、同月二八日伊勢崎市大島病院に入院した。

(ロ)  入院後本人の病状は好転し、同年三月中旬頃までは普通の療養生活を送つたが、その後嘘言をはき、不当な要求をするなど、我儘勝手な行動をして病院の規律を破り、同月一五日頃から作業療法の一環として段ボール工場に通勤を初めたが、同月三一日同病院から脱出、沼田市に帰る金がないため前橋保護観察所に出頭した。そのときは保護観察官につきそわれて帰院したが、四月四日再び同病院から逃げ出し、結局退院させられた。

(ハ)  本人は、四月六日から東京都板橋区の母N・Z子方に引取られたが、無軌道な行動を続け、母の指導に従わず、義父等の家族に対しても迷惑をかけた。

(ニ)  五月一八日母につきそわれて祖母方に戻つたけれども依然落付かず、五月二九日家出、上京して上野公園附近を徘徊中警察官に保護され、同月三一日沼田市の家に戻つたが、六月二〇日再び家出し、東京浅草附近を放浪中兄Jによつて沼田に連戻された。

(三)  上記の事実は、犯罪者予防更生法第三四条第二項所定の遵守事項ならびに同法第三一条第三項にもとづき定められた遵守事項に違反し、本人の上記行動、疾病、環境等を併せ考えると、少年の非行性は少年院入院前より進行し、すでに在宅保護の限界を超えているので、この際すみやかに医療少年院に戻して収容する必要がある。

二  当裁判所の判断

(一)  本件記録ならびに審判の結果を総合すると、一応上記(二)記載の事実が認められた。しかし少年の上記行動は、てんかんの持病と低格な能力に起因するものと考えられるところ、実兄S・Tが少年の保護に熱意を有し、祖母が一応引取意思を有するので、少年の素質や処遇経過からみて、気長に病気の治療に当るとともに、簡易な仕事に就かせて長期にわたり勤労の意欲を養う必要があると思料し、昭和四一年七月一一日在宅試験観察に付し、祖母方に帰住させた。

その後間もなく、少年は大発作を起して入院し、長期の入院治療の結果軽快し、昭和四二年三月二六日退院して実兄T方に引取られた。実兄は、退院後の生活環境になれさせるため少年を直ちに就職させず、約一月静養させた上、同年四月二〇日近くの○○事務器株式会社に就職させても、初は短時間の勤務とし、次第にその時間を延長して五月一〇日頃から始めて平常勤務とする等、調査官とよく連絡をとつて補導に努力した結果、恵れない家庭に育つた少年が初めて実兄の許に安住の場所を得たばかりでなく、仕事についても次第に興味を得て、ようやく安定のきざしが見え初めた。

従つてこの際少年を施設に収容するのは相当でなく、実兄の保護の許、在宅指導を続けるのが相当である。

よつて主文のとおり決定する。

(裁判官 菅原敏彦)

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